須賀物語-【須賀】の地名の起こり-
この地区が【須賀】と呼ばれるようになったのは、明治の終わりになってかららしい。
江戸時代、今の富田林市は石川郡と錦部郡とに分かれていた。当時、現在の【須賀】に繋がる錦部郡(カラー部)は、12の村から成っており、河内狭山藩等の支配を受けていたといわれている。そして、明治の中頃、12の村の内、錦郡村、伏山新田、錦郡新田の3つの村が合併し、錦郡村となったが、明治の終わりになって、その中の“大字錦郡新田”が【大字須賀】と改称された。これが【須賀】という名称の始まりである。(何故、【須賀】という地名になったのかはよく分かりませんが…)
なお、その頃の【須賀】は「大小の池、川の渓谷や丘陵に囲まれていたが、高地に有ったため水の便に乏しかった。また、松並木が遥か遠くまで連なり、村には氏神としての天満宮と、寺院としての神宮寺があった」「当時の人口は238名だった」と古文書に記されている。